はてなの決心高度

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。

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タブレット端末の環境再整備

先日、タブレットに使っていたmicro SDがおかしいので故障とみなして新しいものに交換した。

その後、故障したSDを何回かPCに接続して読み込んだりフォーマットしてみようとしたのだが、大容量ドライブとして接続されたことは認識するものの、中身にアクセスしようとするとシステムがフリーズして先に進まなかった。このSDは据え置きで常時起動して機材に接続する目的で使用していたのだが、ここの所放置していると勝手にPCの電源が落ちるというトラブルが頻発していた。その原因はPCの設定にあるのかと思ったら実はSDの側にあったのだろう。

新しいSDについては、これまで32GBの容量だったものを壊れても惜しくない価格ということで16GBで妥協した。そうすると、以前のように容量に余裕はなくなってくる。出先で音楽を楽しもうにも全てを収録できなくなったので、限定的にファイルを入れている。空き容量をある程度入れておかないと、そこに出先で撮影した写真や動画の整理とか、出先で処理したいファイルの収納などがあるので、音楽は聴けるがそれ以外はできない端末になってしまう。音楽も出先で全て聴くわけではないから内容を絞ってもよいだろう。

また、micro SDを入れて普通のUSB端子とmicro USB端子の両方に接続してUSBメモリのように使えるアダプタも購入した。通常のUSB端子側はSDの挿入部になっていて、その関係で横幅が広くて端子を挿入しづらいのだが、その反対側のmicro USB側はそのままタブレット端末に接続したり、アダプタをかませることでUSB Type-Cのスマートフォンにも接続できるので、使用の範囲は広がる。

USB Type-Cのアダプタは通常の充電用のケーブルにつなぐことで使いまわせるので、携帯時にはmicro USBの巻取りケーブル2つとアダプタに電源プラグを持ち運ぶことで、大体はスマートフォンwifiルーターの充電あるいはタブレットへの給電をまかなうという方針にして、外出時のケーブル類の持ち運び点数を減らした。ひと頃ほどのゴチャゴチャ感はなくなった。

以前だと携帯電話と充電器という手回り品だったが、充電する電子機器が増えてその対策に追われるようになった。ただ、使うものがある程度共通しているのが救いである。絞れるものは絞って、以前のように手軽に持ち歩きたいものである。

windows8.1のありがたい機能

今、windows8.1とwindows10のatom搭載タブレットをそれぞれ1台ずつ保有している状態である。タッチパネルの反応が良いのでwindows8.1のほうを優先して使っている。

もともとはwindows10の環境で使い慣れてきたので、正直ダウングレードしたような劣等感と、未経験で独特のスタートメニューとデスクトップが分離したことによるwindows8.1の環境へなかなか慣れないので使いにくいと感じることは時々ある。特に、画面の隅をタップしたつもりがサイドメニューを起動してしまい肝心の操作ができず、何回試行しても上手くいかないのでいら立つこともある。

その反面、タブレットでメインで行う作業がテキストエディタでブログの内容編集のため、windows8.1だと便利だと思う面がある。それが、ソフトウェアキーボードとソフトウェアの適切な関係だ。画面一杯にメモ帳やそのほかのエディタを広げる。そこに下半分はソフトウェアキーボードを表示する。非常に助かるのが、編集しているテキストを画面フル表示したときに完全に下の方まで編集できる点である。

テキストエディタやOfficeソフトなどでwindows10で文書編集をしようと思った場合、文書を画面でフル表示にしたときにソフトウェアキーボードで隠れる部分が出てきてしまう。そのために、隠れた部分を編集するにはウインドウをうまくタップしてサイズ調節して画面の下半分を占有するキーボードを避けるように調節する必要がある。

この点、windows8.1の時はメモ帳ならばテキストがキーボードを避けて最後まで表示してくれるし、その他の一般のwindows用のエディタでもウインドウのサイズが自動で調節されて、やはりテキストの最後までスクロールして編集できるようになる。

windows10はwindows8.1の不完全な部分を改善して、よりタッチパネルで使いやすいOSになったのだと思っていたが、実はタッチパネルで使おうと思ったらwindows8.1のほうが便利なのではないかと感じ始めている。あの独特のスタートメニューも頻用するソフトやフォルダを登録しておくと、下手なデスクトップの整理よりも使いやすいのだから尚更そう感じる。

キレる老人の不当要求

事あるごとに「みんな」というワードを持ち出す者がいる。自分が利得を得るために他者に要求をつきつけるのだが、それによって利己的な主張をしていると周囲から思われたくないので、「みんなのため」に主張しているという体裁をとり、要求を相手がのんだら多数の行列の中にしれっと並んで便乗して利得を受け取ろうとする。そのために使う口実が「みんな」である。本当は皆のためでもなんでもなく自己への利益誘導だ。

こういった連中は、「みんな」とは誰のことかというごく簡単で答えられて当然の質問に答えることができない。そんな人物は妄想の世界にしか存在していないからだ。常識のある大人なら、この段階で妄想から覚めて「みんな」などいないと正気に戻るのだが、彼らはそれができない。おかしな要求でも、「みんな」という数を背景にすれば押し切って主張を通せると思っているし、妄想を通り越して「みんな」が存在しており、自分の味方をしていると信じ切っているのだろう。まるでインチキ宗教家が教義を唱えて弟子に囲まれているうちに本当に超能力があると信じ込んでしまうように。

要求が受け入れられないと、彼らは全身から粘着剤でも出ているのではないかと思いたくなる程に主張に固執する。そして、時には昨今話題の「キレる老人」のように必死で相手に毒づきながら、要求を通そうとする。そうして傍から見れば主張が利己的にしか見えなくなるのに、自分の利得のためではなくみんなのためだと必死で言い訳をする。

それなのに、連中は周囲の目を異様に気にする。要求がどう見ても一部の者にしか利益になりそうにない内容なのに、利己的な理由で求めているのではなく、みんなのためだと言い張る。だんだん仔細をついていくと主張にボロが次々と出てくるのに、それでも「みんなのため」と言い続ける。利己的な発想の塊だからこそ特定の要求に固執しているのに、それでも異様に周囲の目を気にして自分が利己的に思われないようにと必死で取り繕おうとする。

こうした主張をするのは、概ね団塊世代よりは少し上の世代に多い。ネットでは団塊世代は不評であるが、むしろ団塊世代は欲望の表出がハッキリしているともいえる。なぞかけ問答で答えを察して自分を優遇しろと闇にアピールして、なぞかけへのお察しがされず、主張が聞き入れられないと暴走しだす傾向は欲望丸出しの団塊世代では珍しい。

今後、この団塊より上の世代のお察し暴走は激化すると思われる。彼らの多くは社会の主流の立場からは外れており、生産活動には関わらない。当然、他に与える立場から受け取る立場のウエイトが大きくなる。また、加齢に伴って脳の機能が低下してくる。「みんな」を持ち出す行為は丁度子供が悪事を咎められたときに、皆もやっていると言い訳をして追及をそらそうとする手口そのものであり、脳の機能が低下することによって精神性も幼児退行するのである。

こうすると、特定の要求のために何時間も固執し、実現しないと暴走という事態が全国各所で頻発するとみられる。日本のサービス業は行き過ぎた要求をする客に対して甘い傾向がある。そして、老人は暇であるし脳の機能が低下してくると、相手がモノを売るために仕事をしており、不当要求をしている間にも給与が発生しており店舗に損害を与えているという認識ができなくなり、延々と店頭で不当要求を繰り返し一般の客の購入の邪魔をするようになる。かくしてブラック企業やサービス業の劣悪な労働環境が増長される。

今後、行き過ぎた要求をする者に対して厳しい対応をとることを社会的に当然と見る風潮が普及するのが望ましい。幸い、団塊より上の世代はあと15年もすれば大半が死滅する。そして、社会的な力関係でもそれより下の世代がより主導権を持つようになる。お察し要求で暴走する老人が願望が実現せずにいら立った末に憤死するまで徹底抗戦しても、まともな一般人は何ら困らない。不祥事を起こしたら年金や医療を減らしていって自然淘汰させるシステムでもいいんじゃないの。