はてなの決心高度

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。

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出版不況とテクノロジー

小説を読んでいると、設定が時代について来れない部分を感じる。

昔なら鉄道は密室状態で停車するまでの連絡手段は列車無線や窓から手紙の投下くらいしかなかった。今は個人の端末で連絡し放題だ 。ニュースも翌日の新聞までとか伝わるタイムラグがあったが、ネット配信やTwitter辺りのタイムラインではその場の情報が すぐ流れる。街頭は監視カメラだらけで行動は筒抜けだ。

つい最近まではあの設定で通用したのだ。携帯電話が普及して日本国民の二人に一人がネットを使うとか言われていた頃は、 まだまだ古い価値観の設定が通用した。だが、皆がスマートフォンを使うようになった辺りから少しずつ変わり始めたように思える。

時代によって進化するテクノロジーより、人間の内面に注目すべきかといえば、それは疑問である。人との接し方についてすらスマー トフォンで手法を検索していそうな昨今では結局技術に振り回されるだろう。

出版不況が叫ばれており、様々なものに皆原因を求めている。だが何より、読者や筆者自身が納得できるような設定が書きにくくなっ ている社会も原因ではないだろうか。

ネット叩きのいち側面

暴力団が社会の表裏を支配しており、地域住民も事あるごとに暴力団を動員して物事を解決しようとする体質で有名な九州のある市で、 既婚の巡査部長が重婚をしようとして懲戒処分になったという。

この土地の本来の体質ならば処分せず見逃して、むしろ内部告発者を始末しようと動くから、珍しい結末である。 きちんとマスコミ報道して悪事があったと公表することは重要だ。それによって、事件が衆人環視の中に置かれて不正な対応をとりにくくなったのだ ろう。穿った見方をすれば、ネット住民による監視社会の影響で閉鎖的な村社会の体制がほころんでいるのかもしれない。

ネットで事件の犯人について叩く風潮をネットいじめだと主張する向きもあるが、むしろ被害者の弱者には助け舟だろう。

横浜市の学校で起こった教師による福島出身の被災者へのいじめ行為の隠蔽と、その後の教育委員会の数百万円の金銭授受はいじめではなくおごり だったという報告書も、ネット住民がおかしいと大々的に騒がなければ学校という密室の中でうやむやに処理され、 被災者の子供は大人公認でゆすりたかりできるというレッテルを貼られて、今後もつらい思いが続いたに違いなかったのである。 ネット住民の監視と容赦ない叩きのおかげで横浜市教育委員会による組織ぐるみの金銭恐喝から被害者を救ったのだった。

学校とか村社会のような、この種の閉鎖的な体質の場所で内部の連中の憎しみや妬みを一方的に受けたとき、従来できたことはやられる立場に甘んじるか、 そこを逃げ出すしかなかった。

私もたかが大学受験したいというそれだけのことで、村社会の序列が揺らぐ余計なことをしようとしているとされて、地域ぐるみで脅迫された。そして、 ある寒い夜にこっそり家出して線路伝いに逃亡し、上京した。ホームレス同然の生活で大変だったが、きちんと進学するべきところには進学できた。 たかが紙に何か書くだけに過ぎない入学試験ごときで揺らいでしまう、その程度のものが地方の住民が重んじる地元の秩序だった。

今はネット叩きを通じて世間一般のまっとうな価値観で物事を評価してくれる場所がある。これは閉鎖的なコミュニティで孤立して追い込まれる弱者には希望 である。スマートフォンでも何でも、ネットに情報発信できる方法があったら、それ自体が反撃手法であり、もう孤立して悩まなくて良い時代になった。 ネット炎上や人肉検索にはそのような一面がある。

思想信条に介入する者

別に相手が同性愛だろうが、特定アジアだろうが、カルト宗教入ってようが、構わない。日頃そんなスタンスを取っていると、時折勘違いした輩が出てくる。支持者や仲間扱いして、対立する陣営の悪口を言い出したり、追い落とす為の工作に加担するように誘ってくる。また、私がそれに拒否反応を示すとか、彼らの方針に少しでも合わない部分があると怒りだして、思想改造まがいの押しつけを始めたり、それを拒否すると突然敵扱いされて攻撃対象になる。毎回うんざりする流れである。

意外に思われるかもしれないが、私はいわゆるリベラルではない。むしろ逆だ。それでも相手の思想信条関係ない扱いをするのは、その問題に関心やシンパシーがあるからではなく、むしろ関心が無いからだ。その問題に積極的に関わっていく気がない。世間一般の寛容などそんなものだろう。

逆に問題意識があって関わっていく気があるならば、その逆の思想とは相容れなくなり対立を生むことになる。そんなことをお互いやり合っているならば社会の大半は敵なのであって、いちいち相手の思想信条をチェックして些細な点でも自分達のそれと合わないかどうか照合し、相手を制圧するなり自陣営に取り込むなりし尽くすには途方もない労力を要するので、最終的には陣営の総元締以外は完全に同一の思想を持っていないとして全員死滅する必要があることになってしまう。

そして、そのような対立をわざわざ起こしてまで彼らに関与する必要性を感じないし、対立したくない。そして、肩入れするだけの価値を感じない。それは下手すれば自分自身の生存を否定する行為に加担することになるからだ。親が同性愛ならば現在の自分達は生まれていないはずだろうし、カルト宗教に肩入れするなら自分達が死滅すべき異教徒であることを認めて死滅する必要が生じる。特定のものに寛容であるということは、実はそれ以外の多様性を認めない不寛容なのである。そんな思想信条は到底認めたり加担したくはないし、せいぜい尊重するにしても自分に関与してこない範囲で勝手やっていればという程度になる。

だから、相手の思想信条について殊更に介入して、それを特定の方向に強いるような真似はしないが、相手が逆にそれを強いる目的でこちらの思想信条に介入してきたり、それらに利する為に人間関係を悪用して踏みにじるような行為に及んだときは全力で反発して排除する。それは、私の思想信条を侵害する行為だ。

今日もそんな輩が賛同者を利用しようと肚を探ってくる。それを全力で阻止する。