はてなの決心高度

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。

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ひきこもり考

ひきこもり、という言葉は定義が曖昧な割りに差別的な意味合いで広く使われている。一体何を以ってひきこもりとするのだろうか。

単に家とかに引きこもって、他とコミュニケーションをとらないことなのだろうか。今の時代にも、修行僧があちこちの寺にいる。彼らも引きこもりなのだろうか。他との関係と意識的に遮断して、自己の思索を深めていき、一つの確信に至る。この営みは決してマイナスな物ではないし、誰しも大事なことを決めるときは最終的には自分一人で決断しないといけないことが沢山ある。修行僧も、自己の身の振り方を決める人もひきこもりなのだろうか。

そもそも、2chではひきこもり同士の交流スレッドを散見する。彼らは「ひきこもり」のステレオタイプに反して、他とコミュニケーションをとっているのである。

しかし、彼らのコミュニケーションの内容をつぶさに追っていくとある種の特徴がある。それは、思考にある種の閉塞性、自己完結性が感じられるということである。通常、人間は周囲の環境から受ける刺激に対して応答し精神が発達する。すると、環境に対する視点に新しいものが生じ、それが応答を更に豊かにする。これの繰り返しによって、人間は精神を発達させ、自己の新しい局面を切り開いていく。

これは何も観念的なことではない。例えば、このHPを見て、なにがしかのトピックが印象に残ったとする。そうすると、その内容に即して、あるいは逆に疑って、社会の事象を見るようになり、これまで気づかなかった社会が呈している側面を理解し、社会生活に一つの行動指針が生まれるのである。しかし、彼らにはそのような営みが無い。書かれている内容からは、思考が同じところを何回も旋回していて、次の局面に至る萌芽を何ら感じないのである。

ひきこもりの最大の特徴は、「次の局面」の無さにある。しかし、そのような特徴を有しているのは何も世間でいわれる「ひきこもり」だけではない。

自分一人でしなければならないことと、他者と共同ですることがある。これらの状況を上手く判断して使い分け、物事を次の段階に進めていくのが健全な人間の営みといえる。ひきこもりはその二つの状況の調節のバランスが取れていない人達を指すと言えるのではないだろうか。つまり、世間で広く知られている篭っているタイプの「閉じたひきこもり」と、他者との中身のない関係に入り浸り依存するタイプの「開いたひきももり」の2種類を私は設定したい。世間は前者に目が釘付けになって、後者が増えていることに気づいていない。

「メルトモ」なる言葉が一時期槍玉に挙げられた。メールで交友などもってのほか、顔と顔を合わせてこそ交友関係だなどという主張なわけだが、メールの交友も実際の交友もその繋がり方や成員、交友の中身を見ていくと、その実体は大して変わりなく、最近の「友達」の指す内容や交友関係全般はどこか空虚なものになっているのでである。その特徴を挙げてみよう。数を稼ぐことが重視、やたらと屯する。集まっているだけでも友達であり相手の人物像については頓着していないようである。また、メールなど中身の無いやりとりをしないと落ち着かない。当然だが、いざというときには何の役にも立たないし、何らかの下心があって近づいている場合すらある。一人では何も出来ないくせに集団になると平気で狼藉を働くが、責任を追及されると他者になすりつけたり、皆がやっているからと逃げる。

これらの営みには何ら「次の局面に進む」というプラスの要素を感じない。それどころか、閉塞性と自己完結性を感じるのである。停滞する者同士で屯して傷をなめ合い、立場を正当化し合う。「次の局面に進む」者を憎悪し、集団で手段を選ばずに妨害する。結局、そのような交友関係にある者は、ひきこもり同様の心性を持っているのである。

スーパーフリーの強姦事件で、世間は何故このようなものが若者の間に蔓延したのだろうかと目を疑った。しかし、上記のような交友関係の変化を考慮すると、たやすく説明できるのである。交友関係の空虚さには目をやらず、数を稼がないといけないというある種の義務感。屯すると安心できるという感覚。或いは、始めから強姦されること、あるいはそれに預かれることを期待してそこに行ったのかもしれない。ここで道徳やエイズ問題を説くと、たちまち嫌われて東大阪の事件のように生き埋めにされるのだろう。怪しい団体の蔓延以前に、交友関係の変調が蔓延していたのである。

「閉じたひきこもり」だけでなく、「開いたひきこもり」への注目と、対策を始めなければ、日本社会全体が「ひきこもり」のような閉塞感を呈するようになる。

(C)2007

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