はてなの決心高度

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。

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意見を押し付けるマスコミ

最近、NHKのニュースを見ていて気づいたことがある。確か、夜9時のニュースだったと思うが、ニュースに対してコメントをつける人物を配置しているのである。私は常日頃、民放ニュースにコメンテーターがついて、脇で色々と意見を述べる姿に対しても違和感を感じていた。その様式が遂にNHKに拡大したのである。民放のニュースでトレンドになっているから、対抗してNHKでもコメンテーターを配置しようなどと考えるのは早計である。ニュース番組では、ニュースのみを伝えればよい。どの話題を放送するかについて、元々、テレビ局の何らかの編集意図がそこに存在する。そして、コメンテーターがコメントをすることによって、その意図を視聴者に対して強化する形で押し付けてしまう、というメディアによる世論操作、大衆操作、洗脳の如きものに繋がる危険性をはらんでいると感じるからだ。

以前、早稲田大学スーパーフリーを筆頭にして、大学生の性犯罪が多発したとき、ニュースのキャスターが、「最近の大学生は何をやってるんだか」と発言していた。実際、この種のニュースに対して私もそう思った。しかし、その言葉はニュースのキャスターが言うべきことではない。視聴者の判断、司法の判断、そういったものに委ねるべき性格のもので、判断の決定に関わりそうなことは圧倒的な大多数に見られるテレビの場で軽々しく発言するべき性質のものではない。

かなり昔に、「隣人訴訟」という報道被害が発生したことがある。これは、ある家庭の子供を預かった隣人が目を離している隙に、子供が池に落ちて死んでしまい、子供の親が隣人に訴訟を起こしたことから始まった事件である。訴訟を起こした親に対し、報道機関は一斉に「善意で子供を預かったお隣さんを訴えるとは何事」という意見を発信したために、世間全体がこの親に対して訴えを取り下げるように、時には脅しも用いて迫ったために、最後には憲法上の訴権の侵害に当たるとして法務省が乗り出るまでの騒ぎになった。後の世の中でも、報道被害というものは起こっているけれども、この事例は報道の歴史に余りに強烈な汚点を残してしまったので、報道被害の歴史が振り返られるときは各マスコミはダンマリを決め込んで封印し、憲法の解説などの一部の法律書でしか現在では見ることの出来ないエピソードである。

少数の正しい意見を言う人に対して、多数の間違ったものが圧力をかけて意見を封じ込めることを「衆愚」と言い、そのような方向に人々を導くことを「愚民誘導」と言う。マスメディアの不用意な情報は、時として世間を衆愚に向かわせ、社会を荒廃させる因となりうる。第四の権力を僭称するマスメディアは、この影響力を「ためにするため」の道具として利用することを覚えたときに暴走する。

そのようなマスメディアのもたらす影響力の危険性に最も注意を向けている筈のNHKがコメンテーターをつけるようになったのである。

NHKは最近まで、拉致問題に対する国際放送の政府の命令に対して従いたくないという考えを護持してきた。逆に、朝日新聞捏造報道で有名になったNHK番組改変訴訟のデタラメ裁判劇の番組でも、決して主催団体の御意向をそのまま放送することはなかった。NHKは決して日和見主義ではなかった。それは、中立性のある報道を守るためだった。特定の主張のみを垂れ流していれば、その内容は必ず事実を歪めた性質のものを多少持つようになる。これによって、放送内容を取り締まる動きが官民のどちらからからも噴出して、表現の自由を失うきっかけになるからだ。

NHKがコメンテーターをつける上では、その体質上、民放のように制作サイドが気に入った人に自由に発言をさせるわけがない。必ず厳正な人選や、発言内容へのガイドラインは存在している。そして、その範囲から逸脱する発言は本番では登場しない。自由にコメントできないコメントは、所詮誰かの意向の反映に過ぎない。その意向の持ち主が誰か、そのことを考えながら用心深くメディアに接さないと、意図どおりに操られて、誤った歴史を後世に刻むことになる。戦争はメディアを通して少しずつ大衆の意識に浸透する、というが、戦争のセの字を見ただけで神経質に反応する人ばかりのマスコミでその作戦が上手くいくとは思えない。しかし、戦争以外の内容で洗脳が行われることにマスコミはかえって無防備であると言え、作る側も見る側も注意が必要である。

(C)2007

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