はてなの決心高度

飛行機は初代塗装の日航DC-8が好きです。ちなみに飛行機の話題はゼロです。

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義捐金に思う

もう3月の地震から半年近くたつというのに、地震被災地への義捐金を相変わらず募集していたり、肝心の被災者にいまだにお金が渡っていないなど突っ込みどころが満載な事態も見受けられる募金フィーバーであるが、筆者には胡散臭いものに映る。

別に善意に水を差す話ではない。冷静に考えて、東北から北関東に至るまでの広範囲に被災者が多数居住していて、その中の無視できない数が居住インフラを奪われたり、職場自体が失われた人も多数いる。そんな彼らが生活を立て直すのには半端ない額の資金が必要なのであって、数百円程度を募金して被災者の復興に貢献したなどと思っていたら思い上がりも甚だしいといえる。己のひと月の生活費がいくらかかるのかを計算したうえで、その善意は本当に役に立つものだったのかを考え直したほうがよいだろう。

こんなことを書くと、変な連中がしゃしゃり出てくる。そいつらの主張を総合するとこんな感じである。額は関係ない、募金活動を通じて被災地のことを思うのだ、被災者の大変さを考える機会になった、そんなことを言うわけである。ただ、これは気持ち悪いカルト宗教とどう違うのだろうか。

信じることで、世の中のことを見る目が変わる、というのがカルトの連中の常套句だが、変わったのは見方という価値観であって、肝心の問題点やアウトカムは何ら変わっていない。変わっていないのに、見る目が変わった自分に自己陶酔して、肝心の問題は頭からすっぽ抜けたか、放置してるのか、意図的に省略しているのか、とにかく何の解決ももたらしていないわけである。震災の話でいえば、被災者そっちのけで自分たちの慈善ごっこに自己陶酔したり、その立場の正当化のための観念と戯れる言葉遊びに終始しているのであれば、当事者にとっては残酷な仕打ちであるし、何よりうっとうしい存在であるから退場してほしいという本音が出てくるのではなかろうか。

同じことは、この地震がなにがしかの機会になったなどということを言いだす連中にも言える。なにがし、などというぼやかし方はケッタイであるが、そこには人々の連帯だの助け合いだのというワードが入るわけである。これも被災者からしたら、自分たちは偶発的に災害に巻き込まれただけで、てめえらの機会と引き換えの犠牲じゃねえ、という本音が出てくるだろう。もちろん、その機会のための犠牲としては甚大すぎる。

以上、被災者の本音の代弁でした。

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